2006年11月01日

この城のこと

日曜早朝からの翌日月曜までの取材もほとまず完了
雅な昼食の後は、別件の会合に出席するというクライアント様と別れ、ここでお役ご免
帰るまでには時間も十分にあるので、大阪の街歩きでもしようと訪れたのが、なんとベタなことに大阪城



しかし、デケー城である
最寄り駅をちょっと勘違いして、森之宮から大手門まで歩いたのだが、この時点でヘロヘロに
天下様への道は遠いな
前の日の晩、遅い時間だったんで通天閣に登り損ねたんで天守閣へと



お、生駒山も見えてますね

天王寺を南の端にする上町台地の北端がここ大阪城で、城の北側は大川、寝屋川に接し、淀川にもほど近い。つまり、南の市域以外は低地であり、大河川を要害としつつも水運の利をいかして、16世紀後半の築城当初には、難波の津の湾口を扼しつつ、大貿易時代の潮流を受けつつ、その規模は世界の耳目を驚かせた城であった。今でも、ほとほと歩き疲れる城であるが、当時の縄張りは現在の2回りほども大きかったといい、総構えは大阪都心部全域に及んでいたという。

太閤伝説というものが今も浪速の人情にあるとすれば、多くはこの城に由来するだろうし、古来より残る日本の建築物が、チマチマと辛気くさい神社仏閣ばかりだということを考えてみても、日本的スケールを超えた数少ない人物が秀吉であったかとも思える。もっとも、この城自体はあまり縁起が良いともいえない。
考えてみれば一度も勝ったことのない城である。もっとも、城としての機能上の理由から負けたことも一度もない。
その前身であった石山本願寺は、織田信長が10年をかけ攻め続けたがついに落ちず、勅命をもってして講和という、政略的手法で本願寺を退去させた。信長が天下経営のためにそうまでして欲しかったのが、上町台地の北端だったのだが、彼が非業に死んだ後、その天下構想をそっくり引き継いだのが秀吉であった。その豊臣氏の大阪城も冬の陣では落ちず、講和条件のどさくさの策謀で内堀までを埋めたという、徳川家康の強引とも超アンフェアともいえる手段をもって陥としめた。
夏の陣で焼けぼっくいになった城は、間もなく再建され、以後300年徳川氏の城として西国支配の拠点として続く。その徳川氏の城としての大阪城も、総帥の徳川慶喜がここで幕兵5万を擁しながら、鳥羽・伏見の戦端での敗北をもって、賊名を嫌うとか、まぁいろいろな政治的理由で総帥自らがほとんど単身で江戸に遁走するという珍現象で、江戸幕府瓦解の舞台となったのもこの城でのことである。

天守を降りて周囲をブラブラしていると野良猫がすこぶる多い。もっとも、場所柄栄養事情が悪くないのだろう、どの猫も色つやがいい。と、思っていたら、1匹やけになつっこいのが足下にスリスリしてくる。食い物ねだりかとも思うが、スリスリ具合が尋常ではなく、実は猫好きだったりするので、危うく度を失って連れ去りそうになる。「人恋しい季節だねぇ~ (´Д`*)」とこねくり回す。喘息の発作が怖いけどさ。



豊臣氏の天守閣は30年で焼け、徳川氏の天守閣もやはり30年ほどで落雷による失火で焼け、以後、昭和初年に今の天守閣が再建されるまで大阪城は天守閣のない城としてあった。そうなると、現天守閣は70年と近世の両・天守閣よりもはるかに永持ちしていることになる。それはそれで、風情でもあり結構なこと。



とかなんとかほざいでると、3時間も大阪城内うろついてしまった。これは予定外なり。
お、月が昇がっとるがな。さて、日本一長いという天神橋商店街でもうろついてみようかね。

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この記事へのコメント
お疲れさまです。

天守閣からの眺望、戦国ファンの私としては、まったくもって羨ましい(秀吉よりは信長、信長よりも光秀の方が好きですけど…)。正に天下を取った気分になられたことでしょう。しかしあれですか、城の内部はコンクリートで固められた張りボテだったりするのですか? 

ところで、江戸幕府終焉の舞台に関する下りには異論があります。大阪が終焉へと向かう切っ掛けの地になったのは確かでしょうが、そのラストはやはり上野と見るのが正しいのではないでしょうか。

ここでお国自慢(?)をひとつ。新政府軍の袋だたきにも落ちなかった鶴ヶ城(会津若松城)は、日本で唯一、近代兵器による攻撃に耐え抜いた城でもあります(西洋式の五稜郭は除く)。

余談ですが、先日、福島県知事が県発注工事談合事件で捕まったことはご承知のことと思います。賄賂を送ったとされる水谷建設は、三重県桑名市にある会社なのだそう。桑名と言えば、“その手は桑名の焼き蛤”、もとい、桑名藩が有名。桑名藩の藩主・松平定敬は松平容保の弟で、恐らく、兄貴に「お前も官軍に楯突け!」とけしかけられたのでしょう。ここで想像を逞しくするとですね、幕末に辛酸を嘗めたもの同士の絆が今も続いているのかなと、つらつら考えてしまいます。
Posted by K野 at 2006年11月02日 06:45
> K野さま
天守閣そのものが昭和になってからのコンクリ造りで
博物館になっているんでエレベーターが2基並列であったり
コンクリ、手すり付き、ロンリウム貼りの階段があったりと
歴史的遺構ととしての情緒はまったくありません
しかも、天守閣内部がデカイ
もっとも、70年も経た天守閣だけに、それなりの
存在感も出てるんじゃないでしょうか
Posted by やまぶし at 2006年11月02日 23:40