2008年03月16日
曼殊院門跡 ~その1~
叡山西麓からの最短路である、雲母(きらら)坂の途中にある曼殊院は、青蓮院、三千院、妙法院、毘沙門堂と並ぶ天台五門跡のひとつである。寺伝によれば、最澄が延暦年間に比叡山上で営んだ一坊が起源とされるが、他の天台門跡寺院と同様の権威づけのようにも思われる。
話はかわるが、叡山の貴族化は平安期以来の風で、江戸期になると多少は変化もみられたが、天台座主だけは親王がなった。それら親王たちが、座主になる前や座主を退いた後に住む寺が、門跡寺院である。
曼殊院をみると、「これが寺だろうか」と感じる。つまり、公家の別荘というほうが実質に近い。霜雪を経て、あちこち傷んでいるせいもあるが、いぶせきしず賤が苫屋、という感じでもある。
もっとも、江戸初期の公家の教養人は、こうしたたずまいのなかで住みたかったのである。

正門である勅使門は、行事のあるとき以外は開かれないため土塁に沿って北へゆき、通用門をくぐる。すぐに、瓦ぶきの堂々とした庫裡になっている。庫裡とは寺の台所であり、曼殊院にかぎらず京の寺の庫裡はどこも立派なものらしい。寺が僧の修行の場であったころ、多くの人々が薪水炊米の労をとっていたからだろうか。見あげると「媚竈」の二文字が刻まれた扁額がかかっている。
カマドに媚びよ。
明暦2年(1656年)、この地に曼殊院を建てた法親王良尚の書である。論語にある「その奥に媚びんよりは、むしろ竈に媚びよ」によるとのことで、カマドで働くひとを大切にせよ、という良尚のいたわりとやさしさをあらわしたものだといわれている。
もっとも、媚という文字はいささかも雅字としての要素がない。媚竈には、「権臣にへつらう」という語義もあるという。権臣の多くは素性が卑しい。カマドもまたしかり。しかしながらカマドは「時にあたって事を用いるから権臣にたとえる」という。
江戸初期の公家の教養人としての筆頭にあった良尚は、関東の幕府に対する公家の代弁者のひとりでもあった。事実、曼殊院に住みつつも40年以上にわたり現役の天台座主であり、その間4度も江戸へくだっている。うち2度は東照宮の神事のため日光に出向いている。むろん幕府のおぼえはわるくない。しかし、ときに利用されもしたはずで、佶屈とした自虐のおもいがこの怪しい文字を書かせたのではないか、とする説もある。

大玄関奥、孔雀の間には岸駒筆の襖絵がある。人の一生を孔雀の姿であらわしたものといわれ、ここに善光寺如来がまつられている。片隅には人の一生のなれのはて、というわけではなかろうが二幅の幽霊の掛け軸が公開されている。一幅は松村呉春(月渓)の筆によるもので、足のない幽霊が画幅のなかから所在もなさげに浮き出している。
「写真を撮り帰られますと、後日ご自身に差し障りな事が起こることがあります」と、撮影を遠慮するむねのこと門主の筆でしたためられている。

曼殊院には中心となる仏堂がなく、このことからも貴人の別宅であることがうかがえるが、本堂の役を果たしているのが大書院である。寄棟造、こけら葺きの書院建築。向かって奥、「十雪の間」の仏間には本尊・阿弥陀如来が安置されているほか、良尚法親王とその父であり、桂離宮を造営した八条宮智仁親王の画像がかけられている。大書院の建築は、杉戸の引手金具に瓢箪や扇子などの意匠がこらされており、桂離宮との様式に類似するところが多い。良尚は父智仁の晩年の子であったが、父がつくりその死後は兄の智忠親王が完成した桂離宮について多くの影響を受けたのだろう。

建物のあちこちは、よほど古びがめだっている。ほとんど判別できないくらいになった障壁画や、踏むにもきわどくなった廊下や縁側の板。触れれば崩れはててしまいそうで、かばんを肩から吊って歩くのもはばかれる。

静寂そのものの書院のなかで、畳の縁をふみきしむ音にハッとなる瞬間がある。もっとも、歴史的建造物に敬意をはらうという緊張感は、決して居心地のわるいものではなかった。
桂離宮とともに桃山から江戸初期の数寄屋普請の頂点とされる空間で、ぼくは、ふだんの脂っ気がどんどんぬけて、キチンと“おつくわい”しながら床の間の絵などながめるという、地金がすっかり出てきたのであった。
=続くんだよ=
話はかわるが、叡山の貴族化は平安期以来の風で、江戸期になると多少は変化もみられたが、天台座主だけは親王がなった。それら親王たちが、座主になる前や座主を退いた後に住む寺が、門跡寺院である。
曼殊院をみると、「これが寺だろうか」と感じる。つまり、公家の別荘というほうが実質に近い。霜雪を経て、あちこち傷んでいるせいもあるが、いぶせきしず賤が苫屋、という感じでもある。
もっとも、江戸初期の公家の教養人は、こうしたたずまいのなかで住みたかったのである。

正門である勅使門は、行事のあるとき以外は開かれないため土塁に沿って北へゆき、通用門をくぐる。すぐに、瓦ぶきの堂々とした庫裡になっている。庫裡とは寺の台所であり、曼殊院にかぎらず京の寺の庫裡はどこも立派なものらしい。寺が僧の修行の場であったころ、多くの人々が薪水炊米の労をとっていたからだろうか。見あげると「媚竈」の二文字が刻まれた扁額がかかっている。
カマドに媚びよ。
明暦2年(1656年)、この地に曼殊院を建てた法親王良尚の書である。論語にある「その奥に媚びんよりは、むしろ竈に媚びよ」によるとのことで、カマドで働くひとを大切にせよ、という良尚のいたわりとやさしさをあらわしたものだといわれている。
もっとも、媚という文字はいささかも雅字としての要素がない。媚竈には、「権臣にへつらう」という語義もあるという。権臣の多くは素性が卑しい。カマドもまたしかり。しかしながらカマドは「時にあたって事を用いるから権臣にたとえる」という。
江戸初期の公家の教養人としての筆頭にあった良尚は、関東の幕府に対する公家の代弁者のひとりでもあった。事実、曼殊院に住みつつも40年以上にわたり現役の天台座主であり、その間4度も江戸へくだっている。うち2度は東照宮の神事のため日光に出向いている。むろん幕府のおぼえはわるくない。しかし、ときに利用されもしたはずで、佶屈とした自虐のおもいがこの怪しい文字を書かせたのではないか、とする説もある。

大玄関奥、孔雀の間には岸駒筆の襖絵がある。人の一生を孔雀の姿であらわしたものといわれ、ここに善光寺如来がまつられている。片隅には人の一生のなれのはて、というわけではなかろうが二幅の幽霊の掛け軸が公開されている。一幅は松村呉春(月渓)の筆によるもので、足のない幽霊が画幅のなかから所在もなさげに浮き出している。
「写真を撮り帰られますと、後日ご自身に差し障りな事が起こることがあります」と、撮影を遠慮するむねのこと門主の筆でしたためられている。

曼殊院には中心となる仏堂がなく、このことからも貴人の別宅であることがうかがえるが、本堂の役を果たしているのが大書院である。寄棟造、こけら葺きの書院建築。向かって奥、「十雪の間」の仏間には本尊・阿弥陀如来が安置されているほか、良尚法親王とその父であり、桂離宮を造営した八条宮智仁親王の画像がかけられている。大書院の建築は、杉戸の引手金具に瓢箪や扇子などの意匠がこらされており、桂離宮との様式に類似するところが多い。良尚は父智仁の晩年の子であったが、父がつくりその死後は兄の智忠親王が完成した桂離宮について多くの影響を受けたのだろう。

建物のあちこちは、よほど古びがめだっている。ほとんど判別できないくらいになった障壁画や、踏むにもきわどくなった廊下や縁側の板。触れれば崩れはててしまいそうで、かばんを肩から吊って歩くのもはばかれる。

静寂そのものの書院のなかで、畳の縁をふみきしむ音にハッとなる瞬間がある。もっとも、歴史的建造物に敬意をはらうという緊張感は、決して居心地のわるいものではなかった。
桂離宮とともに桃山から江戸初期の数寄屋普請の頂点とされる空間で、ぼくは、ふだんの脂っ気がどんどんぬけて、キチンと“おつくわい”しながら床の間の絵などながめるという、地金がすっかり出てきたのであった。
=続くんだよ=
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